「何んでもない、夜を歩く」

 先日,漫画「さよなら絶望先生」の二次創作小説をPixivで公開した。以下がそのリンクとなっている。

 

「何んでも無い、夜を歩く」/「こもの」の小説 [pixiv]

 

これはTwitterでもう一年近くごにょごにょ言い続けていた作品のことで,一年ほどかけてようやく完成したわけだ。もともとこれまでの人生に深く関わっている作品だっただけに,これがなかなか思い入れのある感じに仕上がった。そのせいかあとがき的言い訳を書きたくなり,どうせ書くのだからと重い腰を上げブログを開設するに至る。そして,どうせだからいかんせん恥ずかしい話もしてもよいかという気持ちが,いくぶんか,ある。

 

  

 そもそも,ぼくが「さよなら絶望先生」という作品を知ったのは,確かあれは中学生の頃で,スカパーを契約してからしばらくした頃のことだった。番組表を流し見ているときにその文字列を発見して,なにかただならぬ気配を感じたのだ。「さよなら絶望先生」。CMもあらすじも見たことがないのに,そこには既視感にも似た感覚があって,ジャケ買いだとかそんな感覚とはまったく別のものに促されて視聴予約をした。結局初めて観た回はあびるの初登場回からで,おそらく第4話くらいだったかと思う。

 

 

  そこから一気にはまってしまい,当時所持していた記録媒体はビデオテープのみだったから,録画しては延々と再生する日々を送った。漫画も途中までは一気買いして,ちょうど買った巻が一見様・百見様の回が収録された巻で,十見様がまさしく自分でげらげら笑ってしまった記憶がある。そこからはもう漫画を読みアニメを観,なんだかよく覚えていなくて,そんな風にアニメ・原作ともに楽しんでいた。ただ,二期の6,7話あたりを視聴した後ですこし面倒なことになった。

 

  

 当時の感覚を言語化することは難しいけれど,とにかく言えることは,もう言葉にできないくらい悲しくなってしまったのだ。次回放映を待たねばならない,そんな理由ではなく,とにかく,悲しい,やるせない。「絶望先生」的に言うなら,「絶望した!」というところだろうか。だが,そんな声も出ない。死んだらどうする,死ぬことは恐ろしい,死にたくない,いやでも,耐えられない,と。

 

  

 まあ思春期の思春期的な出来事で,それがちょうど「絶望先生」によってもたらされたわけだ。だからこそ,ぼくのなかで「さよなら絶望先生」のイメージは,いまでも「死」に直結している。そして,その感覚をもたらした,作品中に満ちているもの悲しさも。

 

  

 その後しばらく「絶望先生」からは距離を置き,単行本もすべて売却するなど,むやみに近づかないようにしていた。ただ,なにかのきっかけで「さよなら絶望放送」というラジオ番組に触れてしまい,もう件の問題についてのスルースキルは結構高くなっていたので,再熱した。ラジオを聴き,漫画をそろえ,アニメを観る。結局は元通りに,ぼくは「さよなら絶望先生」という作品を愛していた。

 

  

 そして,「さよなら絶望先生」は完結に至る。悲しみはなく,ただただ感謝していた。風浦可符香は救われた,とにかくそれが,嬉しかった。

 

  

 さて,今回の二次小説,「何んでも無い、夜を歩く」。ぼくの当初の目的は,「とにかく風浦可符香を救わなければならない」ということで,そのきっかけとなった回は,「最後の、そして始まりのエノデン」。ずっと背景にあった件のイメージがこの回に重なってしまい,そのイメージから,彼女を解き放ちたいと考えるようになったのだ。

 

  

 結局のところ,この作品で目的を果たせたかどうかはわからない。まずこの目的をもったのは原作が完結する一年ほど前のことで,原作最終話近辺でその目的はもう果たされたと思ったのだから。そのため,救いの対象は彼女ただひとりから,自然と彼女を構成する部分に広がり,最終的にああいったかたちになったのだと思う。「一つの可能性としての第30X話」の存在も,非常に大きかった。あれこそまさに,ぼくがずっと見ていた「絶望先生」だったのだ。

 

  

 作品の公開後,自分にとっての幸いとは何かを考える機会があり,ちょうど書き終えて時間もなかったので,この作品を書きながら,考えていたことを思い出した。

 

  

 ぼくは,少女達にとっての風浦可符香になりたかった。

 

  

 彼女たちはきっと,風浦可符香のことを忘れてしまうだろう。それでも,記憶になくとも,彼女は少女達のなかで生きている。確かに呼吸をし,思考をし,風浦可符香は,いまも彼女たちとともにある。少女達を育む土壌として。

 

  

 ぼくも存在になれたなら,たとえ死のうとも幸せだ。死んだらそんなことは思えないけれど,そう思いながら死ねたなら,別段思い残すことはないだろう。まあそれでもやっぱり死にたくはない。怖いし。どうなるかわかんないし。そんな結論を出してみたところで,案外死の直前って,事象の境界面みたいな,ザエルアポロみたいな,そんなんになるんじゃねとどうでもいいことを考えてしまったり,それ結局なんの解決にもなってねえじゃんとまたぐるぐるしたりで,要するにまだ最終決定ではない。

  

 

 ただ,そんな幸せのことを考えていると,やはりなにかを書き続けざるをえないと思ってしまった。頑張ればことばはいつまでも遺こるかもしれないのだから。でも,もしかしたらこれは不純な動機かもしれないとも思った。書くために考えるな,考えたものを書けという偉い人のことばを知っていた。普段のぼくはこのきらいが強く,まあ自分でもそう思っていたので,ここしばらくはそんな考えを基に,なるべく書くことを念頭に置いて思考することはなかった。

 

  

 でもやっぱりそんなことは言ってらんないなと,思ったのはやはりこの作品を書いているときだ。なにかを書いているときは楽しい。読み返すとつらいけど,なにかを書いているときは,如何とも言い難い喜びがある。自分が書いてるのか,文章自身が書いているのかわからなくなっていくあの感覚が,どうしようもなく好きなのだ。

 

  

 結局なにも進歩してないけれど,ひとまずこれでいいやと結論を先送りすることにした。まあとにかく楽しければいいのだ。楽しければ。楽しもうと思って楽しめないことなんてあんまりないし,そう考えればたいていのものは楽しめる。結論を先送りにするという,奇しくも「最後の、そして始まりのエノデン」と似た結果になったことはちょっと笑ってしまった。

  

 

 ところで,タイトルは書きあげるまでまったく考えておらず,公開する段になってふと思いついたものだ。ちなみに「何んでもない、夜を歩く」の「何んでもない」は夢野久作の『少女地獄』の「何んでもない」から,「夜を歩く」は横溝正史の『夜歩く』から引っ張ってきた。本家「絶望先生」を倣おうとしたのだが,盛大に失敗したような気がする。なお念のためだが,作中で夜を歩くシーンはない。なぜこの二作品からかと言うと,読んできた作品のなかだと,この二作品のモチーフが風浦可符香や少女達にいっとう合っているような気がしたからだ。たぶんこの流れには,「さよなら絶望先生」の主題歌を担当した大槻ケンヂという人物の存在もある。それから「何んでもない」と「夜を歩く」の間の読点は本来つけるつもりはなかったのだが,公開されたものにはいつのまにかついていた。だから,ほんとうのタイトルは「何んでもない夜を歩く」のはずだったけれど,ぼくは読点で新しく生まれるリズムというものが変に好きで,しかも存外気に入ってしまったのでそのままにしている。いずれにしても夜歩くシーンはないが,そんなシーンをプロットや書きながら考えていたこともあって,悪くはないんじゃないかなと思っている。

 

  

 と,結局あまり作品自体には触れず,何を書こうとしたのかがなんだかよくわからない話になってしまった。まったく構成について考えずに書きなぐってしまったことをいまは後悔している。文章校正も,なるべく考えたままを書きたかったためにあまり添削しないつもりだ。ちょっと前に小説をどう書いているかみたいな話を見たけれど,ぼくは書くときたいていは映像を参照しない。適当な文字を書きなぐり,よさげな文章だと続く文字を重ね,ある程度たまった文字を参照して,のループ。ボトムアップでしか物事を綴れないということかもしれない。そういうわけで読み返してイメージが面倒くさいことが多々あるし,今回の小説においても,技術面で課題が残った部分がそこだ。あまりこういうことは言いたくないけど,完成した作品を読むと,プロットは崩壊し,段落ごとの繋がりも薄く,会話にいたっては中学生の英語の課題みたいになっていると思う。これからもっと考えて書かなきゃなあと思いながらも,公開したものにはなんか手を付けたくない。この記事もそうなることだろう。記事公開のボタンを,ぼくが押すことが出来たらの話だが。

 

  

 こう何の気なしに筆を執るとだらだら書き連ねてしまうもので,それは大抵意味のないものとなってしまうけれど,日常で書くことが楽しいと思えるのはこういう瞬間なのだ。何から始めればいいかもわからないのに書き始め,終わりどころがわからないけれど,楽しいからという単純な理由で書き続ける。そうやってぼくはどこまでも堕落していくと思う。このブログがいつまで続くかは気分次第としかいえないものの,こういう行為が好きなうちは続けられればいいなと思う。

 

  

 とまあ,あることないこと書きすぎた気がする。まだまだ書き続けていたいけど,これ以上書くと余計わけわからんので,ひとまずここで筆を置くことにしよう。そういえばこのブログの初記事のくせに自己紹介らしいことしてないけど,この文章はぼくこと小物貴という変な名前の人が書いていて,その人物は上のようなことをいつも漠然と曖昧にもやもやしながら考えている人だ,ということをわかっていただけたなら,今後そんな文章を書かずに済んで楽なので,そういうことでよろしくお願いしますということにしたいと思う。いつかは自己紹介を小説でできるようになりたいと願っている。

 

  

 それでは,また。